室生犀星「幼年時代」 #2
父は、すぐ隣の間にいた。しかし昼間はたいがい畠に出ていた。私はよくそこへ行ってみた。
父は、葡萄棚や梨畠の手入をいつも一人で、黙ってやっていた。なりの高い武士らしい人であった。
「坊やかい。ちょいと其処を持ってくれ。うん。そうだ。なかなかお前は悧巧だ。」と、父はときどき手伝わせた。
畠は広かったが、林檎、柿、すもも等が、あちこちに作ってあった。ことに、杏の若木が多かった。若葉のかげによく熟れた美しい茜と紅とを交ぜたこの果実が、葉漏れの日光に柔らかくおいしそうに輝いていた。あまりに熟れすぎたのは、ひとりで温かい音を立てて地上におちるのであった。
「おとうさん。僕あんずがほしいの。採ってもいいの。」
「あ。いいとも。」
私は、まるで猿のように高い木に上った。若葉はたえず風にさらさら鳴って、あの美しいこがね色の果実は私の懐中にも手にも一杯に握られた。それに、木に登っていると、気が清清して地上にいるよりも、何ともいえない特別な高いような、自由で偉くなったような気がするのであった。たとえば、そういうとき、道路の方に私と同じい年輩の友だちの姿を見たりすると、私は、その友達に何かしら声をかけずにはいられないのであった。自分のいま味っている幸福を人に知らさずにいられない美しい子供心は、いつも私をして梢にもたれながら軽い小踊りをさせるのであった。